◯幼少の頃
親戚の結婚式で「ちゅうりっぷ」を歌いました。
親戚なので当たり前ですが褒められた事がうれしく、人前で歌う快感を知りました。
とにかく音楽が好きな子どもでした。
◯小学生から中学生の頃
ピアノは小学校1年から始めました。
初め家にピアノが無くて、オルガンで練習していました。
河合音楽教室が小学校の横にあり通っていました。
ピアノの先生のイメージはとにかく「オシャレ」でした。
メリーのキャンディーを持ってらして、「ピアノの先生はこんなキラキラのキャンディー をおやつに食べるんだ」と思ったことがとても印象的で記憶にあります。
ピアノの先生は私にとってあこがれの存在でした。
小学校では鼓笛隊でトランペットを担当していました。
そして中学に入ってからはピアノをほとんど練習しませんでした。 吹奏楽でサックスを担当していました。
とにかく、楽しかった中学の3年間でした。
中学3年の時に文化祭で、1000人くらいの全校生徒の前で「マイウェイ」を英語で歌 いました。
本当に気持ち良かったことを覚えています。
ピアノを弾くより、合唱のアレンジが楽しかったのを覚えています。
私は一人っ子だったのですが いつも年上のいとこと比べられていると感じて嫌でした。
今思うと自信がなくひねくれて いたのでしょうね。
いとこに私と同じ音大でヴァイオリンやってる子がいたり、東大、慶応レベルの秀才がい たり、ちょっと歌が歌えても、ピアノが出来ても「当たり前」「普通」の評価しかしても らえなかったのがとても嫌でした。
◯高校時代
それでもやはり音楽が好きだった私は音大に行きたいと高校に入りピアノも復帰し、声 楽、ソルフェージュを始めました。
高校では合唱の伴奏もさせてもらいました。
高校三年の時が生涯で一番ピアノの練習したかと思います。
◯名古屋音楽大学入学
一浪して入った大学の友人はみんなお嬢様でした。
みんなのお父さんは会社経営者、銀行 頭取、会社役員。
不動産、株持っているのが当たり前でした。
うちは普通のサラリーマン の父でしたので違和感を感じ少し距離を置いていましたがそれなりに旅行に行ったりコン パをしたりキャンパスライフを楽しみました。
ヤマハのポプコンが好きでヤマハに入り浸り、写譜をさせてもらったり、クリスタルキングの田中さんと打ち上げに参加できたのも良い思い出です。
タレント事務所に入り、テレビ、モデル、歌のユニットで活動していたこともあります。
未だに選挙のウグイスはやってます。
単にちやほやしてほしかったのだと思います。
大学時代にホノルルマラソンに出場したほどハマったマラソンは今も続けています。
大学時代のピアノは試験に合格すれば良しという感覚でした。
◯社会人
結婚するまでの二年半、マラソンとトライアスロンにはまり、ほとんど音楽をしてませ
ん。
友人の結婚式で弾き語りしたり、頼まれるとピアノを弾くくらいでした。
名古屋音楽大学卒業して、同系の同朋大学に就職しました。
浄土真宗の大学なのでお寺の友人多いです。
40歳過ぎるまで自分がいかに恵まれて生きてきたか知らないほどいじめや死にたいほど の苦難にあったことはなかったですね。
周りもお嬢様、いとこもみんな秀才。
音楽ができること、音大に行けることのありがたみも感じませんでした。
音大を卒業した事はアクセサリー感覚でたね。
実際当時は音大卒は嫁入り道具の一つでし た。ピアノが弾けて、歌えて、地味にタレントもできて・・当たりまえだと思っていまし た。
◯結婚
「ああ、結婚したいな」と思い相手はたくさんいましたが、今の旦那と結婚。
26歳でした。
私の音楽の仕事には協力的です。
◯子育て~試練の始まり~
27歳で長女を出産。
そして29歳で長男出産を目前に控えたある日、神様はそれまで、なんの苦労もせず生き てきた私に大きな「試練」を与えたのでした。
長女の耳が聞こえていないことが分かったのです。
1歳5か月まで発達などの異常もなく育っていましたし、私がピアノを弾くと隣で嬉しそう に、鍵盤を触っていました。
聞こえていないなどと疑いもしませんでした。
しかし、落ち込む暇もなく、訓練が始まりました。
補聴器を作り、障害者手帳を作りました。
障害者手帳には長女の写真が貼られているのですが、その無邪気に笑う写真を辛くて見る ことができない私でした。
長女の検査の2か月後、北海道千歳市で長男を出産。
当時主人は自衛官で「政府専用機」に搭乗していました。
そのため、結婚後すぐから、北海道の千歳市に住んでいました。
雪の多い、北海道で産まれたばかりの長男を抱えて訓練に札幌に通うなどできません。
仕方なく、主人を単身千歳に残し、私は実家のある愛知県に戻ることになります。
そして愛知で聾学校と愛知保健センターに通うことになりました。
兄弟なので一応長男の耳の検査もすることになりますが 結果は長女と同じで耳が聞こえていませんでした。
実はその頃の記憶があまり無いのです。
もう、ただ2人も耳の聞こえない子を産んでしまった。
情けなくて、みじめで仕方ありませんでした。
毎日、毎日二人の子どもを道ずれに死ぬことばかり考えていました。
ある日、寝ている長男の首に手をかけようとすると、起きて泣き出してしまったのです。
私は泣き声で我に返りました。
しかし、そんな辛い夜でも朝は来ます。
そして朝になれば訓練に通わなくてはなりません。
忙しさが私を死なせまいと支えてくれていました。
二人目も障がい児と分かり主人も北海道から愛知に転属となりました。
私の両親の助けを得て、毎日必死で訓練と子育てをする日々でした。
◯療育
訓練に通いだした私は、不思議と聞こえるお子さんを羨ましく思うことだけは一切ありま
せんでした。
でも、同じ障がいを持つ子どもと、どうしても比べてしまうのでした。
お勉強のできる聾の子どもさんが羨ましくて仕方ありませんでした。
長女は聞こえないと分かったころからトイレトレーニングを始めたりしました。
言葉を覚える訓練をしてくれない長女には、虐待まがいのスパルタで、親子共々精神的に 追い詰められていきました。
出来の良くない長女が不甲斐なくて、お勉強のできる子が羨ましくて仕方ありませんでし た。
私まで出来の悪い母親のレッテルを貼られてしまった気になっていました。
こんなに私が一生懸命やってやってるのにどうしてできないのかと? 当時の私は鬼のような顔つきだったで事しょう。
◯次女出産
そんなころでした。
私は、次女を妊娠したのです。
まだ長女は2歳、長男は1歳にもなっていません。
主人は私に堕せと言ってきました。
もし、また聞こえない子どもが生まれたら? もっと重い障がいの子が生まれたらどうするのだと・・・ 私は一人っ子でしたので子どもはたくさんほしいと結婚前から考えていました。 「どんな子が生まれようと私は産む」泣きながら主人を説得したのでした。
産むと決意したものの毎日の訓練、生活で心が悲鳴を上げていました。
被害妄想、被害者意識の塊になった私は、お腹の大きな私を見てみんなが笑っているよう に思えてなりませんでした。
「また、聞こえない子ども産めばいいのに」「二人も障がい児いるのに3人目をよく産む わね」 と言われていると思い込んで、さらに私は鬼のような顔つきになっていきました。
将来二人が困らないように、できる限りのことをしてやりたい、あれもこれも教えなくて は・・・ しかし子どもたちはそんな鬼のようなお母さんのいう事などきく訳がありません。 どんどん、大切なものを見失い一人空回りする私でした。
◯誰も私を止められなかった
長女の療育に行き詰った私は当時有名だった、静岡の言葉の教室に通い始めます。
生まれて間もない次女と長男を私の両親に預けて新幹線で週に1回1年ほど通いました。
その教室に通う子どもたちはエリートで発音も綺麗でお勉強も出来ました。
母親教育も大変厳しく毎週出される課題をこなすことで精一杯の生活でした。
さらに私の長女への押し付けは強くなります。
「私がやらなきゃ」私が出来ないから この子が出来ないのだと・・・ 今思えば追い詰められて精神的におかしくなっていたのです。
ある日、静岡に行く日に長女は熱を出します。
それでも私は他の子に遅れることが怖くて 休むという選択肢などありません。
熱のある4歳の子どもを連れて名古屋に向かう
JRに乗りました。
そして通勤ラッシュの電車の中で長女が嘔吐してしまったのです。
周り の方にも迷惑をかけ自分の洋服も汚れてしまいました。
そこでやっと諦めがつき電車を降 りることが出来ました。
ベンチに座りどうすることも出来ない虚しさと情けなさで涙が出 たことを覚えています。
完全に私は母親失格です。
長女の身体のことより訓練を1回休むダメージを心配していた のですから。
◯救ってくれた本との出会い
ふと、ある日本棚のある本を手に取りました。
私の卒業した名古屋音楽大学は同朋大学と同じ系列で浄土真宗の学校でした。
音大を卒業してから私は同じ敷地にある同朋大学の研究室に就職しました。
その同朋大学で知り合った友人にもらった本でした。
タイトルは「子どもたちよありがとう」 著者は浄土真宗のお寺に嫁ぎ、3人の子どもに恵まれますが、長男は問題児でいつもいつ も檀家さんに謝りに行ったそうです。
そして妹が生まれるのですが重度の脳性まひで生まれてくるのです。
どれほど子育てが大変だったことでしょう。 しかもその著者である彼女はがんに侵され、42歳の若さで3人の子どもを残し亡くなっ てしまうのです。
私は本を読みながら大声で泣いていました。
それまでに我慢しため込んでいた悲しみがあふれてきたのです。
そして思ったのです。
全然言葉の勉強をしてくれない長女につらく当たり、長女が出来ないのは私がダメな母親なんだと思い込み、子どもの気持ちを考えてあげる余裕など全くなかったことに気づかされたのです。
3人の子どもを残し亡くなった彼女はどれほどさみしく悲しかったことでしょう。
それを考えたとき彼女の声が聞こえたような気がしたのです。
優しく微笑む彼女は私にこう言うのです。
「子どもの傍で生きているだけでいいじゃない、よその子と比べるのも、押し付けるのも やめて、ただ、あなたは笑っていればいいんじゃない?」目が覚めた私は自分の生き方を 探し始めます。
◯モンテッソーリ子どもの家
この園に長女は2歳児の頃から入れてもらっていました。
当時は人数も少なくて 脳性麻痺、ダウン症、自閉症と障がい児も何人か通うアットホームな園でした。
※カトリックの教会が運営する無認可の幼稚園「モンテッソーリ子どもの家」
ここで長女は好きなことを好きなだけさせてもらいました。
小さな「満足感」「達成感」 を与えてもらい「集中力」「忍耐力」「手先の器用さ」をしっかりと身につけることが出 来たのです。
ここでの経験が将来、就職への大きな手助けになるとはこの頃は思いもより ませんでした。
◯シュタイナー教育との出会い
子どもに押し付けることをやめてから私は自分の内面と向き合うようになっていました。 「なぜ、私の元に二人も聞こえない子どもを神様は授けたのか?」
そんな疑問を抱く中 シュタイナーのある言葉に出会います。
障がいを持った子は高いレベルの魂の持ち主である・・・と。
気持ちがとても軽くなりま した。
縁があり各務原に越してきてシュタイナー教育を実践する幼稚園に長男と次女を通 わせました。
モンテッソーリ教育の園に4年シュタイナー教育の園で3年学ばせてもらいました。
◯ピアノ教室(フリューゲル)を開く
当時、聞こえない子どもを二人も生んだ私に音楽をする資格などないのだといじけて、音大を出たなどと恥ずかしくて周りに話すこともありませんでした。
ピアノも歌も自分で封印していました。
そんな私に転機が訪れます。
私たち家族は長女の就学にあわせて今住んでいる岐阜県各務原市に引っ越します。
入学した学校の先生にも、友人にも助けられ子どもたちは成長していきました。
長女の通う小学校は障がいのある子どもの療育にとても熱心で先生方は本当によくしてく ださいました。
長女に続き長男も同じ小学校の難聴の子が通うクラスに通い始めます。
その小学校では3月に学習発表会を行います。
それぞれの学年で合奏、群読など保護者の前で披露するのです。
うちの子どもが通う基本学級、今でいう特別支援学級でも発表をします。
その発表会で情緒、知的、難聴のクラスの子どもたちがハンドベルの演奏をしたのです。
長男はステージに上がると知的のクラスの子に立ち位置を教えたり、長女も満面の笑みで ステージに立っています。
キラキラ星の演奏が始まりました。
ところが耳の聞こえない二人は曲に遅れてしまいずれてしまうのでした。
それでも、最期まで胸をはり演奏しきった二人を見て言葉では言い尽くせないほどの感動を覚え自分の中の何かが音を立てて崩れていくのでした。
ただ涙をこらえるのが大変でした。
聞こえない子どもを産んだと嘆き悲しみ、取るに足らないプライドでピアノや歌を遠ざけていたこと。
「本当に感動する音楽とはなにか?」大学で教えてもらえなかったことを耳の聞こえない 子どもから教えられたのでした。
ピアノが弾きたい、歌いたいと心の底から熱い思いが沸き上がってきました。
◯40代~50代、コンサート開催
それからは小さなコンサートをさせていただくようになりました。
この子たちがこうして育ってこれたのもママ友、先生、家族、多くの方々のおかげだと気 づかされたのでした。
「私にできることは何か?」と考えました。
そう、音楽以外に考えられませんでした。 リトミック研究センターの上級までの資格取得(2023.4) 岐阜県音楽療法士の資格取得(平成17.3)
わらべ歌ベビーマッサー資格取得(2011.11) 障がいのあるお子さんも来てくださるようになり学びを重ねました。 子育てに関する講演会にも呼んでいただけるようになりました。
今ではライアーの生徒さんを含めると30人近い生徒さんに囲まれた幸せなピアノの先生になることが出来ました。
◯理念
私は障がいのある子どもを社会的に自立させることができました。
長女は同じ聾の方と結婚婚し子どもにも恵まれました。
長男も大学を卒業後大企業に就職、一人暮らしを楽しんでいます。
次女は私と同じ名古屋音楽大学のピアノ専攻を卒業後学校の先生をしています。
私ひとりでは育てられない子どもたちでした。
多くの方の支えがあればこその今があります。
これからの人生をかけて恩返しをしたいと考えています。
私にできるのは「音楽」な のです。
私は年齢や障がいのあるなしに関係なく「音楽のある豊な人生」を提供させていただきた いと考えています。
音楽療法、リトミック(プレピアノ)ではモンテッソーリの教理をレッスンに取り入れて います。
お子さんにはそれぞれの環境や能力に合った「自立」をサポートし「生きる力」 を伸ばしていきます。
ピアノのレッスンではひとり一人に寄り添い、レベルと目標に合わせたカウンセリング レッスンをしております。
ライアーのコースではライアーアンサンブルラ・ソーレでの演奏を通して新たな自分探し のお手伝いをさせていただきます。
障がいをお持ちのお子様には長期的に目標を設定し音楽を通して成長と発達を促していき ます。
親子関係、療育の相談にも応じます。どんなことでもお話しください。